読書メモ「自分の意見で生きていこう」
読書メモ
- 「意見」とは何か
- 世の中には、答えのある問題と答えのない問題がある
- 答えのある問題は「正答」と「誤答」がある
- 「正しい答え(=事実)」と「間違った答え」がある
- 調べることが難しいか簡単かという話はあるものの、調べることができればわかるもの
- 答えのない問題には「色んな人の意見」がある
- 「正しい意見」も「間違った意見」も存在しない
- 正しい意見、間違った意見が存在するならば、それは答えのある問題だったことになる
- 答えのある問題は「正答」と「誤答」がある
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- 調べるべき問題なのか、考えるべき問題なのか見極める
- 正解のある問題を考え続けても意味ない→調べる
- 「仮想通貨って危ないのかな?どこで買えるのかな?」
→考えてないで、さっさとググる
- 「仮想通貨って危ないのかな?どこで買えるのかな?」
- 正解のない問題を調べ続けても意味ない→考える
- 「転職すべきかな?イケ○○さんもそう言ってるし…」
→著名人のアドバイスを調べてないで、自分で考えて
- 「転職すべきかな?イケ○○さんもそう言ってるし…」
- 正解のある問題を考え続けても意味ない→調べる
- 調べるべき問題なのか、考えるべき問題なのか見極める
- 正解は調べるもの、意見は考えるもの
ツイッターで日夜繰り広げられてる争いは、この前提を認識していないことにあったのですね。なんとなく分かっている気がしていたけど、きちんと分解して紐解いてみると、こんな分類になります
誰かの意見が間違っていることを証明しようと躍起になることが、何も生まない不毛な労力であることがよくわかります。
「意見」と「反応」の違い
- その人の意見が間違っているのではなく「あなたの意見と異なる」だけ
- 正解のように見える他人の意見にとらわれず、自分で考えて、自分独自の意見をしっかりと確立できる人がカリスマっぽく見えてるだけ
- 「意見を表明する」=「自分のポジションを明らかにする」
- 立てる場所の全体像をまず確認
- 各発言からどこに立っているのか振り分けられれば「意見」
- 立ち位置が不明なものは単なる「反応」
- ポジションを取って発言できたか否かが意見と反応の違い
- ポジションは他人に想像してもらうものではなく、表明するものなので、それに至ってない発言は単なる「反応」
- 「反応」は、他人の意見の否定・他人の意見への質問の形になることが多い
- 反応することが一律に悪いことというわけではないが、いつもそうだと、意見者から見て「反応はするけど、自分の意見がない人」「議論する価値のない人」として扱われる
- 立てる場所の全体像をまず確認
- 意見は反論できるもの、反応は反論できないもの
- リスクを避けるために意思決定を他者にゆだね、失敗したら相手を責める
- それも自由だけど、幸せにはなれない
- 本当に自分の意見か確認するには
- 著名人が意見を翻したとしても、自分の意見が変わらないか否か
- 自分の意見に自信がないのは、知識がないから・頭がわるいからではなく、「考え尽くしていないから」
自分に意見に自信がないのは、考え尽くしてないから。完全に図星ですね…。
- AIにとって最も難しいことが「自分の意見をもつ」ことと言われている
- 「意見の束」が人格をつくる
- 「あなたはどう思う?」と問う側が望んでいること
- 自分の意見より良い意見でも摩擦を起こさないことでもない。「それぞれがしっかり考えること」そして考えた意見をぶつけて議論をすること
- なのに生煮えの返事しかしなかったり、めんどくさそうな態度だったりすると、一緒に運営する意思があるのか疑われる
例として上がっていたのが、夫婦の問題です。奥さんが子供の教育について「こう思うんだけど、あなたはどう思う?」と夫に質問、夫は「君の好きにしたらいいよ」と回答し、険悪になるっていう話。
夫側は、好きにして良いと言っているのになんで奥さんが怒っているのか分からないっていう状態です。
奥さんは真剣に子供の教育について考え抜き、自分の意見を持ちました。そして夫の意見も聞いて、議論をしようと思い、話しかけました。が、夫は「君の好きにしたら」と一言。
夫のこの態度は優しさなどではなく、単に自分の意見が持てるくらいまで真剣に考えることを放棄しているだけです。考えることから逃げ、意思決定による責任からも逃れようとしているその向き合い方に、不満を持たれています
- 「あなたに任せる」=「自分はもうそのことについて考えたくない」
- コミュニティは、ともに考え、議論して方針を決め、ともに進むと約束した人たちで形成されるもの
- 組織メンバーの中に「ほとんど意見を言わない人」「他者の意見に賛成だけ(反対だけ)する人」がいても、仲間とは認めてもらえない
- 常に他人の意見と同じならば、その人はいてもいなくても同じ。貢献度はゼロ。タダ乗りしてるフリーライダーでしかない。
- 自分の意見を表明し、議論するプロセスに貢献できない人は、仲間ではなく、作業担当者にすぎない
- 例)子供に受験をさせるかどうかの議論はメンバーにしかできないが、実際の勉強自体は家庭教師に外注できる
意見言えるようにならなきゃいけないと、この箇所を読んでいて反省しました。私の場合は、特に会社でのふるまいにおいてです。まだ新人だから期待されていないですが、2年目・3年目と年次が上がってきたら、求められてくるはず。
そして、そのタイミングになったときに「ああ、まあ、それでいいと思います」とか言った瞬間に可能性は閉ざされてゆくんだろうなと。
- 提案し、解決策のひとつとなる具体的なアイデアを自分の意見として提示し、相手の意見を聞いて議論を進める。この態度がリーダーシップと呼ばれるもの
- 「意見を言えるほど深く考えてないし、みんなの前でポジションを取るのも怖い。しかし何も言わないと存在意義を疑われる。とはいえポジティブな反応だけでは賢そうに見えない」と考える人が、ほとんどの会議でネガティブな反応を繰り出してるだけ(ポジティブ反応ばかりだと馬鹿みたいに見えるから)
- 例)本当にそんなにうまく進むものでしょうか?詳細まできちんと検討しないと、なんとも言えないと思います
会社の議論の場で、こういう空気になることありますよね。誰も何も言わないから、先陣切って意見を言ったのにも関わらず、袋叩きにされたり。
反応しかしてこない人には「まずあなたの意見を表明してください」と切り返せばよかったんですね。勉強になった
- 「一概にはいえない」「例外もある」=「へー」と意味は同じ。なにも考えてないし、自分の意見を明らかにする勇気はないけれど、でも何かちょっと言いたい、相手に反応したい、しかもちょっとだけ賢く思われたい、という人が言う言葉。
- 正解が言えないのは知識がないから、意見が言えないのは思考してないから
- 意見を求められた時点で、それは正解のない問題と判断できる。だから、知識がなくても考えれば良い
- 意見を言わないのは、思考放棄
- 考える訓練をする時、調べていいのは意見を述べるために必要な「データや情報」だけ。「他人の意見」は調べない。意見は自分で考えないと生まれない
議論の練習
- 無理にでも意見を言い切る
- 自分で自分につっこむ
- 言語化する
具体的なやり方として、
- 賛成のポジションをとってみる
- 反論を10個、書き出す
- 各反論に反論する
- 反論の反論に反論する
- 最初とは反対のポジションをとってみる
- 反論を10個、書き出す
- 各反論に反論する
- 反論の反論に反論する
ディベートの練習として、こういった思考訓練があるそうです。やってみようかな。意見を言えるようになるための練習。
中立的な意見?
- 両論併記(例:大企業が向いてる人もいるが、場合によってはベンチャーに転職した方が良い人もいる)
- 意見ではなく、あとからわかる全体情報をサマリーしてるだけ
- 後からわかる偏ってない情報であり、意見ではない
- 実質的にはなにも言っていない
- ポジションをとりたくない=考えるのが面倒だから、考えなくても言える当たり前の情報を言っている
- 思考停止をごまかすために使う言葉
- 「お前の意見は偏ってる!」という批判→そもそも「意見はすべて偏っている」
考える習慣
- 「自分は語彙力や表現力がなさすぎる」と嘆く人に足りないのは、多くの場合、国語力や作文能力ではなく、「考える」習慣と考える時間です
完全に自分のことだ、と思いました。会社で経営陣と議論する場だったり、それ以外の会議の場でも、会社の休憩時間でも、話したいけど上手く発言できません
言いたいことがあるけど恥ずかしくて言えない、っていうわけではなくて「何を言ったらいいのか分からない」「言いたいことが何も思い浮かばない」んです。ずっと悩んでいました
この本を読むまで、"語彙力"の問題だとおもっていました。あとは"コミュニケーション能力"が低いから、とふわっとした形で認識していました。
瞬発力のない自分が昔から嫌いでした。大学院生時代、教授とその場のアドリブで議論を進められる同級生も多く、なぜ自分にはそれができないのかわかりませんでした。勉強不足だと思い、勉強し続けましたが、改善することはありませんでした(そして心が折れた)。
今思えば、勉強不足(それもあったとは思うけど)というよりも、思考不足が原因だったんです。だから教科書的な勉強を重ねるのではなく、その論点について自分はどう考えるのか、それはなぜか?反論に対して、さらにどう自分は反論するつもりなのか。具体的な事例では、自分はどう考え、結論を出すのか。その事例の事実が例えばこう変わったら、自分の考えはどう変化するのか、変化しないのか。私は考えてこなかった。というか考えたつもりになっていて、実際は他の人の意見をそのまま覚えようとしていただけだった。それは作業であり、そこに思考はありませんでした。
- パッと意見が言える人、その場で反論に反論できる人は、過去にそれを自分の中で「考えたことがあるから」なことがほとんど
この記載を見て、はじめて合点がいきました。教室で教授の攻撃に対抗できていた彼らは、その場で考えて返しているというよりは、「以前深く考えたことがある」から即座に対応できていたんですね。
当時の自分は(いったい頭の中にどれだけ知識を保管しておけるんだ?自分は彼らより脳の造りが劣っているのだろうか…)と本気で悩んでいました
「思考して、自分の意見を表明して、議論の土俵に乗ること」は、学生時代から前職まで、環境や場所や付き合う人間関係が変わっても、ずっと自分の宿題だったようです。
今度こそ逃げずに、正面から向き合ってみたいとおもいます